箱根寄木細工の歴史
箱根の木工芸
箱根・小田原地方で伝統的に作られてきた木工製品のことを「箱根細工」といいます。箱根細工は、轆轤(ろくろ)を使って器やお盆を作る「挽物細工」と、板材を組み合わせて箱や箪笥を作る「指物細工」に大別されます。
箱根地方は日本国内でも特に樹種の多い地域で、古くから多くの木工芸品が生産されてきました。戦国時代には既に箱根の地で木工芸品が作られていたという記録が残っており、当時は挽物細工が盛んに作られていたようです。江戸時代になると東海道が整備され、湯治土産として箱根細工は広く知られるようになりました。
寄木細工の誕生
寄木細工の誕生は、17世紀半ば、駿府の浅間神社建立にあたって全国から集められた職人によるものと考えられています。それからおよそ200年間、寄木細工の技術は静岡で発展しました。
江戸時代中期になると箱根地方は湯治客で賑わい、土産物としての箱根細工は大変な人気を博すことになります。そのころには従来の挽物細工のほかに、指物細工も多く作られるようになりました。そして江戸時代後期、畑宿に生まれた石川仁兵衛(1790-1850)が静岡から寄木細工の技術を持ち帰り、それを取り入れた指物細工を作り出します。箱根寄木細工の誕生です。その後、畑宿で脇本陣だった「つた屋」の金指松之助なども加わり、寄木細工は畑宿で発展してゆきます。
海外に紹介された寄木細工
茗荷屋庭園跡
ペリー(1794-1858)の来航によって下田が開港すると、畑宿の「茗荷屋」が海軍へ売り込みをかけ、箱根細工は定番の土産物になります。横浜が開港すると、漆器、陶器などに混ざって寄木をはじめとする箱根細工も輸出され、神奈川一帯の発展に大きく寄与することになりました。
シーボルト(1796-1866)も江戸参府の際に箱根に立ち寄り、寄木細工を見たという記録が残っています。実際、彼がオランダに持ち帰った工芸品の中に、寄木細工をあしらったものがあります。
明治30年代、湯本茶屋の物産問屋、天野門右衛門らが中心となり、「箱根物産合資会社」が誕生します。箱根物産合資会社は数々の外国商会と活発な取引を行い、寄木細工を世界に発信して行きました。1904年、箱根物産合資会社はセントルイス万国博覧会に寄木細工を出品します。
無垢の寄木細工
日中戦争が開戦する1937年ごろから箱根寄木細工は衰退の途をたどることになります。東京オリンピックのあった1964年までに、寄木細工職人の数は激減しました。そんな中、金指勝悦は挽物細工に寄木細工を取り入れた全く新しい技法「無垢の寄木細工」を考案します。その頃から箱根寄木細工は盛り返し始め、1984年、箱根寄木細工は通商産業大臣指定伝統的工芸品の指定を受けます。そして現在、他に類を見ない産業として箱根寄木細工は全国にその名が知れ渡っています。